築城年代は定かではない。
南北朝時代には南朝方の金谷経氏が東条城をを拠点に活躍しており、それがこの豊地城と見られている。建武3年・延元元年(1336年)に北朝方によって焼き払われた。
応仁年間(1467年〜1469年)頃になると国人の依藤氏(よりふじ)の居城となった。 文明15年(1483年)赤松政則は山名氏の本領但馬への攻撃にこだわり、真弓峠で山名政豊に大敗すると、重臣の浦上則宗らは東条に諸将を集めて会談を行い赤松政則を追放した。
享禄3年(1530年)別所村治(就治)は柳本賢治の援軍を得て豊地城に攻め入ったが、このときは浦上村宗の援軍が来ると、柳本賢治が陣中で急死(暗殺とも)し、依藤氏は攻勢に転じて別所勢は敗走した。しかし、永禄2年(1559年)頃には依藤氏は別所氏によった滅ぼされた。
その後は別所重棟が在城したが、天正8年(1580年)三木城合戦で別所氏が滅ぼされると豊地城も廃城となった。
豊地城は東条川南岸の平地に築かれていた。 「字城土居」を中心として東西約400m、南北約200mの規模であったという。
現在は観音堂の所に石碑があり、南側は堀跡、東には高土塁が残っている。 現在北側に道路が新設されて工事中であるが、一部発掘調査中のようである。
県道85号線の北側に観音堂がある。ここに石碑が建っている。
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