築城年代は定かではないが貞和年間(1345年〜1350年)に本郷掃部守直頼によって築かれたと云われる。
長禄年間(1457年〜1460年)には富田氏、戦国時代には宇喜多氏の家臣が在城していたという。
有年山城(八幡山城)は千種川西岸に聳える標高201mの大鷹山山頂に築かれている。近年地元の方によって整備されていて見学し易い山城になっている。多くの書籍では八幡山城として紹介されており、当初はその名称で紹介していたが、現地では有年山城としているので有年山城(八幡山城)に変更している。
主郭は三角点のある山頂の曲輪Iで、そこから西の曲輪IIに向かって小規模な段が築かれている。主郭I周辺は地質による風化もあってか切岸はあまり明瞭ではない。
西端の曲輪IIのあたりは城内で最も広く、その一角に円形の窪みが4つ、南北に長い窪みが一つ確認できるが用途はよくわからない。
主郭から南に伸びる2つの尾根にはそれぞれ段曲輪が設けられているが、東の曲輪群IVは切岸があまり明瞭ではなく、段差も小さい。一方西の曲輪群VIは切岸がはっきりしており一部石積を伴いながら段々と連なっている。この間の谷には畝状竪堀群8があるが、西端の曲輪群VIに隣接する竪堀は規模が大きい。
さらに下ると畝状竪堀群10がある。見た目が新しく崩落など城郭遺構なのかどうか判断がつきにくいが、竪堀の起点部分に石積があり、これは北の畝状竪堀群6の部分にも石積を確認できることや、巨石群下の堀切から伸びる竪堀も同じようなところまで落ちているので、城郭遺構と判断している。
主郭の北側には曲輪VIIやVIII、IXがある。曲輪IXの側面には石積があり竪堀状の溝がいくつか確認できるが、曲輪VIIの北側面同様自然地形に近い。北の谷部には三条の畝状竪堀群5があり、そのうち一条の起点部分に石積がある。
主郭から東へ伸びた尾根には曲輪Vがあり、その下方に堀切8や横堀4、竪堀1、2などが確認できる。
大手道は不明だが、薬師堂ルートがそれに近いのではないだろうか。
南麓の八幡神社から登るルートが一般的だが急坂である。東の公民館側から古墳経由で登るルート、八幡神社から少し北に進んだところにある薬師堂から登るルートが比較的楽に登る事ができる。
最寄り駅(直線距離)