築城年代は定かではない。南北朝時代に赤松則祐によって築かれたとも云われる。
戦国期には安室義長が在城し、その子新五郎が継いだが幼少であったため家臣長船越中守が代官として守備したという。 天正5年(1577年)には小田・吉田・内海・片島の4氏が攻めたが落城しなったため、軍学に長じた高見治部を頼み山伝いに城に入り、火を放って落城させたと云う伝承もある。
天正年間(1573年〜1592年)には宇喜多氏の家臣長船氏が守っていたようである。
駒山城は千種川に面した標高260mの生駒山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂の曲輪I1で周囲に腰曲輪群を備えており、西のI2の方に虎口を開いている。曲輪の周囲は切り立った崖地形で、容易に登ってくることはできない。
小さな谷を挟んだ西側に曲輪群IIがある。北端が最高所で南に向かって段を築き、その周囲に武者走りを設けている。南端西側のCには列石がコの字に見えており建物跡のようでもあるが、石が小さく後世のものだろうか。
主郭北端から東へ降ると曲輪IIIがある。険しい地形だが、この曲輪にも石積が確認できる。堀状の溝は背後の崖地形から流れ落ちる雨水を曲輪内に入らないように谷に落とすためのものだろう。
主郭Iと曲輪IIの間の谷に「空堀」と表記されている溝Aがある。現状は堀ではなく、溜池のような印象であるが、南の土橋状の通路が後世の改変で、南の谷Bの方に竪堀が伸びていたとすれば堀として機能していたと考えられる。
南の谷Bには石積段と井戸のような円形石積、その脇にも小さな方形石積がある。このうち円形石積は井戸とされるが、外側にも石積があり井戸としては違和感がある。このあたりの地形も城の遺構なのか後世の改変なのか悩ましい。
水之手とされるのは谷の北山腹にあり、現在でも水を湛えている。さらに降ったところには石積も確認できる。
駒山城の残存具合は一見良好に見えるが、曲輪I5に石仏が祀られているとおり、後世の改変もそこそこあるのではないだろうか。
登山口は南尾根先にあり、入口に駐車可能で案内板も設置されている。東麓側に降ると古墳群も見学可能である。
最寄り駅(直線距離)