築城年代は定かではないが鎌倉時代後期に高田兵庫輔によって築かれたと云われる。
『太平記』に元弘3年(1333年)1月に赤松円心によって高田兵庫輔の城が攻め落とされたとあり、これが高田城とされる。ただし、現在の遺構は戦国時代の頃のものである。
高田城は高田集落の奥八幡神社の背後に聳える標高359mの山に築かれている。
高田城の規模は大きく、最高所の主郭、南西下の二郭、そして南尾根山腹にある三郭と大きく三つの曲輪群からなる。
主郭は最高所の標高359mの所にあるが、残念ながらこの辺り一帯だけ重機による破壊が行われており遺構は欠損している。特に北背後は大堀切であったと思われるが、林道が大きく切り崩しており、両山腹に竪堀が残るのみとなっている。主郭部はこの主郭から南西側に大きく三段の曲輪があり高い切岸となっている。
主郭の南西下標高340m付近にあるのが二郭で、二郭の中心となる大きな曲輪の北側面を大きな横堀が巡っている。東下と南東下に腰曲輪があり、南尾根は土橋の架かる大堀切がある。
南尾根の標高360m付近にあるのが三郭で、この部分は規模が小さく、上下二段の曲輪となる。その下方には鉄塔が建っていた平地があるが、曲輪かどうかは不明である。
麓にある奥八幡神社の付近は「御屋敷」と呼ばれ居館と推測されている。
山腹にあった鉄塔整備道が利用可能である。奥八幡神社の西から北へ谷間を入る林道を進んで行くと広場にでる。ここから東の谷間を登り詰めると山腹を登っていく道があり、そこから尾根道を伝うと鉄塔跡、その上が三郭である。下から尾根上まではほぼ道らしき道になっていないので、登りやすそうな場所から尾根上へ登れば良い。
主郭背後に続く林道は東の小野豆集落から続いているようであるが、どのような道かは不明。
最寄り駅(直線距離)