築城年代は定かではない。南北朝時代に大宰少弐頼尚によって築かれたとも伝えられる。
天正年間(1573年〜1592年)には筑紫広門の家臣帆足弾正が城番を務めていたが、天正14年(1586年)島津氏によって攻められ落城した。
飯盛城は天判山城から東に派生した標高150m程の山腹に築かれている。
天拝山遊歩道の案内図にも記されている城で、東麓の道路沿いには標識もあり、山頂にある天判山城が案内で少し触れられている程度なのに対し、こちらはきちんと説明板まで建てられている。
単郭の山城であるが、西へ繋がる尾根を自然地形と合わせて大きく切り離しており、切岸も高く見栄えがする。鞍部には土塁の跡らしきものがあり、もともとは多重堀であったのかもしれない。
主郭は南北にやや長く、段ははっきりしないが北側が高くなっている。南へ伸びる尾根と北へ伸びる尾根を堀切で遮断している。遊歩道に従って北東へ降りていくと「武者隠し」と呼ばれる地があり、堀に隠れて敵を迎え撃った所とあるが、地形はよくわからない。
東麓には江戸時代この辺りを治めていた福岡藩家老の立花氏の蜂隈屋敷があり、その家臣で温泉奉行を務めた松尾氏の屋敷跡がある。
天拝山遊歩道から東へ降りていく道がある。そのまま東麓へ降りる道が付いており、堂山城、天判山城、そして飯盛城を経由して降りるルートで散策した。
最寄り駅(直線距離)