築城年代は定かではない。応安6年(1374年)九州探題今川了俊が宮浦、由比、雲上などに分かれて布陣しており、この頃に築かれたのが始まりとされる。
戦国時代には勝尾城主筑紫氏の重要な支城となり、天文2年(1533年)頃には筑紫正門が居たと云われる。永禄年間(1558年〜1570年)には筑紫氏の内訌があり、草野真清が筑紫惟門の子仁九市丸(後の筑紫広門)を抱え込んで宮浦城に籠もったため、筑紫輝門が宮浦城に夜討を掛けて仁九市丸を奪還している。
宮浦城は瀧光徳寺の北西に聳える標高328mの城山に築かれている。
主郭は南へ伸びた尾根の先端頂部にあり、北背後を大堀切で遮断、側面にも竪堀を入れている。主郭部は南北に長い曲輪であるが切岸は甘い。東に二段の腰曲輪があり、その下方に畝状竪堀群がある。さらに南東に降ると城内で最も広い曲輪があり、南東尾根と南尾根をそれぞれ堀切で遮断している。
瀧光徳寺の納骨堂慈照閣 大駐車場があり、そこから北の山上に登っていく階段が付いている。
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