応永30年(1423年)九州探題渋川義俊によって築かれたと云われる。
渋川氏は大宰少弐武藤氏と争いに敗れ、その大宰少弐武藤氏も明応6年(1497年)筑前国の回復を目論んだが周防国大内氏に敗れた。
その後、筑紫氏が勝尾城主となり、満門、惟門、広門と三代に渡って居城となった。 天正14年(1586年)筑紫広門は北侵する島津軍と戦ったが敗れ落城した。この戦いでは弟晴門が島津の部将川上忠堅と一騎討ちを演じて相討ちとなり、広門は捕らえられて幽閉の身となった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で広門は幽閉先から脱出して再帰を計り、旧領を奪還する。戦後秀吉から賞され、筑後国上妻郡に一万八千石余りを賜り筑後国山下に転封となった。
勝尾城は標高498mの城山山頂に築かれている。現在は「勝尾城筑紫氏遺跡」(勝尾城、葛籠城、鷹取城、鬼ヶ城、鏡城、若山砦)の一つとして国指定史跡に指定されている。
主郭は山頂にあり西と南が張り出した三角形で南端は「伝物見岩」と呼ばれ展望が開ける。北側が一段高くなり低土塁が一部残り、神社でもあったのか方形の基檀が残っている。西へ続く尾根は自然地形だが、南西下にも削平地があり石積を伴う土塁がある。
現在の登山道が主郭に達する部分は石段となっているが当時のものかどうかはわからない。ここを主郭の北側に回ると石積が残っている。
主郭から東へ続く尾根を降りて行くと「伝二の丸」へと続くが、途中北側側面に二段になった石積があり、その手前は大堀切で南側へは竪堀となっている。
鉄塔を越えてさらに東へ進むと尾根が東と南へ別れるが、南側の尾根の東側面には累々と石積が残っており、その先が堀切となっている。
登山道を戻ってくると「伝大手曲輪」があり、ここは大石が無造作に転がって所どころ石積がある。大手曲輪の先にある谷を駆け登った所が「伝二の丸」と「主郭」の分かれ道で、そのまま側面を行くと「伝二の丸」の南へ伸びる尾根に到達する。
本丸から南西の尾根を降ると南北に伸びた石塁が細長い曲輪を東西に分断するように設けてあり、さらに側面にも石積が残る。
登山道は南山麓の筑紫神社(筑紫氏居館)からある。ここから大手を経由して登る道と西の南尾根を経由して登る道があり、登りと降りを別ルートである歩くことができる。
ちなみに山腹に舗装林道があるのだが、入口は一般車両通行禁止になっている。
最寄り駅(直線距離)