『芸藩通志』には「松尾山 横田村にあり、一に土肥城と称す、高橋大九郎貞光、所居、後石見出羽城に移居る、按に、貞光は、毛利家の外戚にて、詳く陰徳太年(ママ)記に見えたり、」とある。
築城年代は定かではないが高橋氏によって築かれたと云われる。高橋氏は石見国藤掛城を居城とした国衆で、その領国は石見、出雲、安芸、備後の4ヶ国にまたがっていた。この松尾城は高橋氏の安芸国領のなかで南端に位置する拠点城郭であった。
高橋氏ははじめ周防の大内氏に属して勢力を拡げていたが、永正12年(1515年)高橋元光が備後国入君での戦いで討死すると、家督を相続した高橋興光はその後に反大内方となったことにより、永正13年(1516年)毛利興元が松尾城を攻めている。
享禄2年(1529年)に大内方の弘中氏、毛利元就、和智氏がともに松尾城を攻め落とし、城主高橋弘厚は自刃する。さらに高橋氏の本城である石見国藤掛城まで攻め込んだ毛利軍はこれを攻め落とし、当主高橋興光は自刃して高橋氏は滅亡した。
松尾城は標高450mほどの山に築かれており、現在は県指定史跡となっている。特に山道が整備されているわけではないが、城内は比較的見学し易い。
松尾城の遺構は近年周囲にも遺構が確認され城域はかなり拡がっている。
主要部は主郭Iから東へ伸びた尾根に築かれた曲輪群で、上段に主郭I、II、下段に曲輪IIIがあり、いずれも北側に土塁を設ける。
曲輪IIの東下がやや凹んでおり、曲輪IVに続く通路と接続しているが、ここがもともとは竪堀7とつながる堀切であった可能性があり、そうであれば、堀切を埋めて曲輪IIIを増設した可能性がある。
東の尾根先端は堀切1で遮断し、その外側にも竪堀地形が確認できるが不明瞭なものが多い。
南尾根も多重堀切6で遮断しており、ここも二重堀切と竪堀を組み合わせて遮断している。
主郭から北へ続く尾根も二重堀切3と両側面に竪堀群3を設けている。一番おもしろい遺構は竪堀4で、土塁を伴う堀を斜面を斜めに入れており横堀のような役目を果たしている。この堀に向かっては短い畝状竪堀群を落としており、多重堀切6から伸びる竪堀との間は畝状竪堀群5で埋め尽くされている。
主要部の外側には陣城遺構と思われる遺構が拡がっており、北端は堀切であるが、各尾根の先端は土塁または切岸のみで終わっている。詳しくは『安芸の城館 城館50選と安芸の城館の実像(ハーベスト出版) 』に掲載されている縄張図を参考にしていただきたいが、削平段の側面に通路を設け、中央に通路がある場合は両脇の段曲輪が互い違いになるなどの特徴があり、これらは周辺に点在する尼子方の陣城遺構との類似点がある。
案内板が南麓に設けられている。そこから林道を進むと左右に道が分かれるがどちらからでも行けるらしい。私は西側へ進み動物除け柵近くに駐車、柵から中へ入り、西の南尾根に取り付いて登った。