『芸藩通志』には「平佐山 竹長山 並に同村(多治比村)にあり、上は平佐市正、下は桜井與三左衛門所守、」とあり、平佐市正を城主とする。
平佐氏は毛利氏庶流で、毛利元就に側近として仕えた平佐就之などが知られる。
平佐城は多治比川と於手保川に面した標高350mほどの山に築かれている。毛利元就が幼小記を過ごした猿掛城に隣接する。
ほぼ独立した丘陵で北西から南東に伸びる山頂部に遺構が拡がっている。
主郭Iは最高所にあって最も丁寧に削平されている。これ以外の曲輪は造成が甘い。
主郭から南東へ伸びる尾根は自然地形に近いが主郭下のあたりは土橋状に削られている。南端には曲輪IIがあり、南下は弓形状の堀切で、曲輪IIの東側面で竪堀になる。
堀切2の南側も若干削平されて曲輪となり、南端は浅いが堀切1で遮断してある。
主郭の北側は浅い窪み(堀切3)があり、そのさきは中央を土壇として周辺を削平した曲輪IIIがある。土壇部分は古墳であろうか。
北の道路沿いに続く尾根にも削平地や古墳のような高まりがある。
北の道路から動物除けの柵を開けて登る事ができる。
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