築城年代は定かではないが高橋氏によって築かれたと云われる。高橋氏は備中国松山城主であった高橋師光が、南北朝時代に北朝方の高師泰に従って軍功があり、石見国阿須那を与えられ土着したことに始まるとされる。
北朝方として活躍した高橋氏であったが、延文6年(1361年)には南朝方に転身し、隣接する北朝方であった出羽氏を攻めて押領した。
高橋氏は阿須那の藤掛城を居城として石見のみらなず安芸や備後にも勢力を拡げていったが、享禄2年(1529年)高橋興光のときに大内氏から尼子氏に転じたことから、大内の命を受けた毛利元就によって安芸の松尾城が攻略され、藤掛城もまた攻められ、高橋興光の自刃によって開城、高橋氏は滅亡した。
藤掛城は出羽川とその支流の間を南北に伸びた山上に築かれている。
主郭は山頂にあって南北に長く、中央に土壇があり南北に区画される。このような土壇は櫓台とされるが櫓台ではないだろう。主郭の北西下と東下にやや広い曲輪がある他は小さな腰曲輪程度である。
主郭から南へ伸びる尾根には二重堀切、西下には浅い堀切の先に不明瞭な段曲輪がある。北尾根側は北西下の堀切や北尾根の二条の堀切が続く。北尾根にある小ピークには削平の甘い段曲輪群があり、古い時代の遺構とも考えられる。
羽須美中学校の北にある阿須那公民館のところに案内板が設置されている。
案内板にある東側の登山道を利用しようとしたが、道は途中でなくなってしまった。そのまま林道を西側へ回り込んで西から登るとやや緩い登山道が南の二重堀切のあたりに続いているようだが、現状こちらの道も通じているのかどうか不明である。
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