築城年代は定かではないが貞応2年(1223年)富永朝助(出羽朝祐)によって築かれたと云われる。記録に残る築城年代としては石見国では益田氏の七尾城に次ぐ古さである。
出羽氏(イズハ(ワと発音))は伴姓で祖富永祐純は近江国三上荘の荘官であったが治承4年(1180年)源頼朝の挙兵に呼応して木山義経に味方し平家に反旗を翻した。これによって石見国邑智郡久永荘に流罪となった。文治元年(1185年)壇ノ浦合戦で平家は滅亡し、佐々木定綱が石見国守護に補任されたこともあって荘園別当和田氏とともに瑞穂・石見町の支配することとなった。
南北朝時代には出羽氏は北朝方として各地を転戦した。康安元年・正平16年(1361年)阿須那の藤掛城主高橋師光・貞光父子は足利直冬の要請によって南朝方となり、北朝方の出羽氏を攻めた。高橋氏はもともと備中国高梁を領し、北朝方として高師直に従っていたが、高師直の失脚によって阿須那に転封となっていた。高橋氏の出羽侵攻は半年余り続き、出羽実祐は次第におされ二ツ山城に押し込められると高橋氏は火を放って山を焼き尽くしたという。実祐は火中で自刃して果てたが、嫡子祐忠は地頭所城に籠って佐波氏からの攻撃を退けた。
二ツ山城を落とした高橋氏は本城を築いて居城とし、その後、安芸国・備後国にも勢力を拡げている。出羽氏は横領された出羽郷の旧領回復を執拗に嘆願していたが、明徳3年(1392年)大内義弘によって南北朝の統一がなされ、高橋氏は出羽郷七百貫のうち二百五十貫の領地を出羽氏に返還することで和議が調い、出羽氏は出羽郷の宇山城に居城した。
戦国時代になると台頭してきた安芸国の毛利元就に接近し、享禄3年(1530年)高橋氏が毛利元就によって滅ぼされると出羽郷の旧領を回復した。この時、本城は破却されたが、宇山城から二ツ山城に居城を移したかどうかは定かではない。
出羽元祐(元実)は嗣子として毛利元就の六男鶴法師丸を迎え、元服して出羽元倶と名乗ったが、元亀2年(1571年)僅か十七歳で早世した。家督は元祐の実子元勝が継いだ。この元勝は天正17年(1589年)従五位下出雲守に叙任され豊臣姓を賜わっている。天正19年(1591年)出羽氏は出雲国頓原の由岐に転封となった。
慶長5年(1600年)毛利氏が関ヶ原合戦で防長二ヶ国に減封となると、出羽氏もそれに従って移り、御手廻組と大組(元勝の子元智を祖とする)の二家存続した。
二ツ山城は永明寺集落の北に聳える標高530.8mのニツ山に築かれており、現在は公園として整備されている。 その名が示す通り、東西二つの峰がある山で西の峰に西の丸、東の峰に本丸が設けられている。
本丸と西の丸は互いに小高くなった峰の上にあり、周囲より高く独立性が高い。その間の尾根は馬場とも呼ばれ長く平坦になっており堀切などはないが、西の曲輪側は大きく箱堀となっている。
本丸の北尾根は二重堀切で城内側は大堀切となっている。東尾根も三重堀切があり、その外側にも小さな堀切がある。南尾根は尾根が更に二つに分かれる部分にそれぞれ二重堀切を設けている。
西の丸はその周囲に腰曲輪があり、西尾根には大きな三重堀切がある。
国道261号線から城山の南、永明寺集落へ入った所に林道の入口があり、林道の終点に駐車場かがある。