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備後国府
広島県府中市元町山陽道に位置する備後国は、延喜式の格付けでは上国・中国である。
国府は葦田郡に置かれていたことが「和名抄」によって知られており、現在の府中市元町付近と推定されている。また、国分寺のある安那郡、現在の...
安芸国分寺国史跡
広島県東広島市西条町吉行安芸国分寺は現在も真言宗の寺院として存続しており、国分寺跡はその境内と重なる。国分寺跡は「安芸国分寺歴史公園」として整備されている。
現在本堂が建っている所がそのまま金堂跡で、その北に講堂跡、僧...
宍戸隆忠夫妻の墓(理窓院)
広島県安芸高田市甲田町下甲立(理窓院)宍戸隆忠は五龍城主宍戸元源の次男で、兄元家の子宍戸隆家が家督を継ぐと、その後見人を務めた。しかし、家臣の諫言を信じた隆家によって殺されてしまう。その後、隆家が原因不明で失明したことから隆忠の祟りだと信...
宍戸隆家夫妻の墓(天叟寺跡)
広島県安芸高田市甲田町上甲立宍戸隆家は五龍城主で毛利元就の長女五龍姫を妻とした。この宍戸隆家夫妻の墓は、元禄元年に没した宍戸隆家の墓と、継室石見繁継の女のものである。天正2年に没した五龍姫の墓も天叟寺にあったとされるが、現在は不...
毛利隆元逝去の地
広島県安芸高田市高宮町佐々部毛利隆元は毛利元就の嫡男で広島城を築いた毛利輝元の父である。
永禄6年(1563年)毛利隆元は友宗麟と和議を結んだことで、出雲の尼子氏攻めの援軍として山口から吉田郡山城を経て出雲へと進んだ。隆元...
尼子三兄弟ゆかりの墓
広島県安芸高田市向原町長田永禄9年(1566年)出雲富田城の戦国大名尼子義久は毛利元就に降伏、尼子義久以下、倫久、秀久の三兄弟は毛利氏によって幽閉の身となった。
三兄弟はこの長田の地で23年を過ごし、さらに志道の屋敷へ移...
陶晴賢敗死之碑(高安原)
広島県廿日市市宮島町陶晴賢は周防の戦国大名大内家の家臣で周防若山城主であった。主君大内義隆を討ち、大内義長を当主に据えた。
弘治元年(1555年)9月陶晴賢は毛利元就と合戦となり厳島へ渡海して毛利方の宮尾城を攻撃し...
陶晴賢の首塚(洞雲寺)市史跡
広島県廿日市市佐方1701-1陶晴賢は周防の戦国大名大内家の家臣で周防若山城主であった。主君大内義隆を討ち、大内義長を当主に据えた。
弘治元年(1555年)9月陶晴賢は毛利元就と合戦となり厳島へ渡海して毛利方の宮尾城を攻撃し...
穂井田元清の墓(洞雲寺)市史跡
広島県廿日市市佐方1701-1穂井田元清(毛利元清)は毛利元就の四男で側室の子である。備中猿掛城主となり、その後、桜尾城主も兼任した。本家毛利に憚って穗井田氏を称すが、穗井田家を継いだわけではないようである。
友田興藤の墓(洞雲寺)市史跡
広島県廿日市市佐方1701-1友田興藤は厳島神主家の一族で、厳島神領の家督を巡って大内氏と対立し、天文10年(1541年)大内氏によって桜尾城を攻められ自刃した。
桂元澄夫妻の墓(洞雲寺)市史跡
広島県廿日市市佐方1701-1桂元澄は毛利家重臣で桂城主。厳島合戦で陶晴賢に内通したという偽計を演じ、毛利方の勝利に貢献、厳島神領衆の居城であった桜尾城主を務めた。
武田元繁戦死之地の碑
広島県山県郡北広島町有田武田元繁は佐東銀山城主である。安芸武田氏はかつて守護職を務めた家柄で、土着した一族がその後も佐東銀山城を居城として勢力を維持し、分郡守護とも呼ばれる地位にあった。武田氏方であった山県氏の居城有田城が吉...
己斐豊後守師道戦死之地
広島県山県郡北広島町有田己斐豊後守師道は己斐城主己斐豊後守宗瑞である。永正14年(1517年)有田中井手の戦いで武田元繁に従って戦ったが、大将である武田元繁が吉川毛利連合軍に敗れ討死してしまった。残兵は今田城に退いて軍議を開...
熊谷元直の墓
広島県山県郡北広島町丁保余原熊谷元直は三入高松城主である。武田元繁による有田城攻めに参陣し、緒戦で吉川・毛利連合軍と戦った。しかし、吉川家臣の宮庄経友によって討ち取られた。この戦いは有田中井手の戦いと呼ばれ毛利元就の初陣として著...
尼子下野守義勝(久幸)の墓
広島県安芸高田市吉田町西浦尼子久幸は出雲国富田城主の尼子経久の弟である。
天文9年(1540年)尼子晴久は吉田郡山城の毛利元就攻めを開始する。はじめ尼子方が有利であった戦局も、冬となって年を越した頃になると兵糧の確保も難しく...
湯原弥二郎切腹岩市史跡
広島県安芸高田市甲田町上小原湯原弥二郎宗綱は尼子の家臣である。天文9年(1540年)尼子晴久は吉田郡山城の毛利元就攻めを開始する。このとき湯原宗綱は兵千五百を率いて向原方面に展開する毛利軍を攻めようとしたが、峠の頂上付近で合戦と...
福原氏墓所(楞厳寺跡)市史跡
広島県安芸高田市吉田町福原福原氏は毛利庶流で鈴尾城主であった。毛利元就の生母はこの福原氏の女である。
福原氏墓所は鈴尾城の東にあり、十代福原広俊の菩提寺楞厳寺跡に残されている。ここには福原広俊、貞俊、元俊などの墓がある。...
可児才蔵の墓(才蔵寺)
広島県広島市東区東山町1(才蔵寺)可児吉長こと可児才蔵は美濃出身で、関ヶ原合戦によって広島藩主となった福島正則の家臣である。慶長18年(1613年)に没し、才蔵峠(さいぞうたお)と呼ばれる西国街道の要衝に墓碑を建て、その碑文として「生...
毛利弘元墓所(悦叟院跡)
広島県安芸高田市吉田町多治比毛利弘元は安芸の吉田郡山城主で毛利元就の父である。明応9年(1500年)家督を嫡男興元に譲って隠居し、次男元就を伴って猿掛城を隠居城として過ごしたという。永正3年(1506年)1月21日に享年39歳で...
桂広澄の墓
広島県安芸高田市吉田町桂桂広澄は桂城主で毛利一族坂氏を出自とし桂村に分家し桂氏を称した。大永3年(1523年)から続いた毛利家の家督相続争いで元就の弟相合元綱を擁して謀叛を興し坂氏が成敗されると、事件には直接関係はなかったが...
毛利隆元墓所
広島県安芸高田市吉田町吉田毛利隆元は毛利元就の嫡男で大永3年(1523年)に多治比猿掛城で生まれたと云われる。
永禄6年(1563年)九州の大友氏と和議が整い、吉田に帰陣して出雲に援軍に向かう途中に急逝した。享年41歳であっ...
毛利元就と毛利一族墓所
広島県安芸高田市吉田町吉田毛利元就は毛利弘元の次男として明応6年(1497年)3月14日に生まれた。生誕の地は母福原氏の居城である鈴尾城とされ誕生の碑が建っている。父毛利弘元の隠居に伴い多治比猿掛城に移り住んだ。永正13年(1...
新羅神社
広島県広島市安佐南区祇園5丁目25神社の由緒書きによれば、正安2年(1200年)に安芸守護職武田信宗が甲斐から勧請したという。祭神は新羅三郎(源義光)で、清和源氏の後裔で武田氏の祖とされる人物である。
新羅神社は武田山の南東麓に...
福山藩水野家墓所(賢忠寺)県史跡
広島県福山市若松町1福山藩初代藩主水野勝成の墓をはじめ、父忠重、三代勝貞、四代勝種などの墓がある。
水野勝成は三河国刈谷城主水野忠重の子として誕生した。故あって出奔し各国を流浪するも刈谷城主として家督を継いだ。その...
国司右京亮の墓(休照庵跡)市史跡
広島県安芸高田市吉田町国司国司氏は足利尊氏の重臣高師直の弟高師泰の子師武が安芸国高田郡国司荘に下向して土着し国司氏を称したことに始まると云われる。
国司氏は代々毛利の重臣として仕え、国司有純は毛利元就の後見役、その子有相...
小早川隆景屋敷(藤社神社)
広島県安芸高田市吉田町吉田小早川隆景は毛利元就の三男で、竹原小早川家の養子となって木村城主、さらに宗家である沼田小早川氏の家督となり高山城主となった人物である。この小早川隆景が吉田郡山城下に構えた屋敷が藤社(ふじもり)神社の辺...
武将山 立専寺
広島県広島市安佐南区山本9丁目21立専寺は山号を武将山といい浄土真宗の寺院である。もとは銀山城主武田氏の菩提寺で武将山金龍院という禅宗の寺であったが、武田氏の衰退とともに荒廃した。その後、天文4年(1535年)に正春法師によって浄土真...
吉川千法師と乳母の墓
広島県広島市安佐北区上深川町吉川千法師は吉川興経の子で、天文19年(1550年)吉川興経が幽閉先の館で毛利元就によって襲撃され興経とともに討ち取られた。
吉川千法師と乳母の墓は興経の館から東に少し離れた場所にあり、ちょうど...
豊島(手島)兄弟の墓
広島県広島市安佐北区上深川町豊島(手島)兄弟は吉川興経の家臣で、天文19年(1550年)蟄居していた吉川興経が毛利元就の命を受けた熊谷信直、天野隆重によって襲撃されたさいに奮闘したが、討死あるいは自刃して果てたという。
豊...
大須山防空砲台跡
広島県江田島市江田島町(大須山)砲台
福山藩水野家墓所(妙政寺)
広島県福山市北吉津町1-6墓碑
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