武田元繁は佐東銀山城主である。安芸武田氏はかつて守護職を務めた家柄で、土着した一族がその後も佐東銀山城を居城として勢力を維持し、分郡守護とも呼ばれる地位にあった。武田氏方であった山県氏の居城有田城が吉川・毛利軍に落とされたため、永正14年(1517年)これを取り戻すために大軍を率いて有田城へ向かった。このとき毛利家は当主の毛利興元が病没して幼小であった幸松丸が家督を継ぎ、毛利元就が後見人となっていた。
緒戦で武田方の武将熊谷元直が吉川家臣宮庄経友によって討ち取られ、この報を聞いた武田元繁は激怒して主力を率いて吉川毛利連合軍と対峙、騎馬で又打川を渡ろうとしたところを毛利軍の弓矢が辺り討死したという。元繁を討ち取ったのは毛利家臣井上光政であったという。この有田中井手の戦いが毛利元就にとって初陣であった。
「武田元繁戦死之地の碑」は有田城の南麓に流れる又打川に沿った地に建てられている。又打川は現在では小さな用水路程度の川になっている。