尼子久幸は出雲国富田城主の尼子経久の弟である。 天文9年(1540年)尼子晴久は吉田郡山城の毛利元就攻めを開始する。はじめ尼子方が有利であった戦局も、冬となって年を越した頃になると兵糧の確保も難しくなって戦局は悪化する。天文10年(1541年)大内義隆の援軍が毛利に加わり、尼子の本陣が攻められて危うくなったとき、尼子久幸が討って出て奮戦し討死した。この奮戦のおかげで尼子晴久は無事出雲に引き上げることができたと云われる。
尼子久幸の墓は吉田サッカー公園の近くにあり、公園の北の道を東へ走っていくと北側に看板が建っている。この看板から山を少し登った所に墓があり、この場所は尼子久幸の遺体を葬った場所と伝えられる。