陶晴賢は周防の戦国大名大内家の家臣で周防若山城主であった。主君大内義隆を討ち、大内義長を当主に据えた。
弘治元年(1555年)9月陶晴賢は毛利元就と合戦となり厳島へ渡海して毛利方の宮尾城を攻撃した。しかし、毛利元就の軍勢に背後から急襲され壊滅、晴賢は青海苔浦へ逃げて島からの脱出を目指したが船がなく、安ヶ原で自刃したとされる。
『陶晴賢敗死之碑(高安原)』は大正時代に陶晴賢自刃の地を推定して建立されたものという。
陶晴賢敗死之碑(高安原)への道のりは厳しい。ルートとしては二つあり、一つは弥山から岩船岳へ向かう登山道を利用する方法。このルートの場合は登山道沿いに道標が出ており、そこから分岐して谷へ降りる。すると青海苔浦へ通じる道に出るが、急坂を下りきった所で登山道は川を渡る。これを渡りきった先にもう一つの看板がある。ここから入ってやや右奥に石碑がある。
もう一つのルートは海岸沿いに青海苔浦へ行き、そこから川沿いの登山道をひたすら行く方法で、こちらのほうが登り降りは少ない。車やバイクがあれば大砂利集落までは行くことができる。