築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に大井美作入道玄岑によって築かれたと云われる。
平賀氏が滅亡した後、大井氏の所領となり内山城が築かれたと云われる。天文15年(1546年)武田信玄によって佐久の諸城は陥落し、内山城も武田氏によって攻略されると、武田氏の家臣上原昌辰(後の小山田備中守昌辰)が城将となった。
天文17年(1548年)四月村上義清が佐久へ侵攻し、内山城でも攻防が繰り広げられたが、九月に武田信玄が佐久へ出馬してこれを退けた。
天文20年(1551年)には前内山城主の大井貞清が武田氏に降ったため、内山城主に復帰したが、天文22年(1553年)常田合戦で貞清は討死し、その後は昌辰の子昌行が城主となった。 天正10年(1582年)小山田昌行は高遠城に籠城して織田信忠の軍勢と戦い討死、その後は子の小山田昌博が城主となったが北条氏の手に落ちた。
天正11年(1583年)佐久の諸城は徳川家康方の依田信蕃によって次々と攻略され、この内山城もその手に落ちた。この時の城主は小山田六左衛門あるいは猪俣能登守であったという。
内山城は滑津川の北岸に聳える標高860m程の山に築かれている。 現在は園城寺から遊歩道が設置され公園として整備されている。
主郭は山頂にあり、山頂から南に二段、北に二段の曲輪がある。その周囲は切り立った岩肌で容易に登ることはできない。主郭一帯には所々に石積が残されている。
西からつづら折りで登る遊歩道沿いに石積された曲輪があり、その少し下から南尾根側へと歩くと「馬場の平」と呼ばれる南北に長い曲輪があり、東側に土塁が付く。
主郭から北東側へ降りると鞍部に堀切があり、その西側に竪堀が一条北側へと落ちている。この竪堀を降りた所に水之手とされる石組み井戸が残る。
主郭から北西側の尾根を降ると園城寺の北側の尾根に至り、堀切が付いた曲輪が残る。
国道254号線から内山集落内に入って行くと園城寺と内山城の道標が出ている。登山道は園城寺の隣の絹笠神社脇にあり、園城寺の所に駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)