築城年代は定かではないが鎌倉時代に大井氏によって築かれたと云われる。 大井氏は清和源氏小笠原流で小笠原長清の七男朝光が大井荘の地頭となって大井氏を名乗ったことに始まるとされる。
朝光の子光長の時には長男時光は大室・二男光泰が長土呂・四男行氏が耳取・五男宗光が森山・六男光盛が平原にそれぞれ館を構え、光長の跡は三男行光が継いだ。 弘安8年(1285年)には鎌倉で「霜月騒動」が起こり、小笠原惣領にあった伴野氏が衰退し、大井氏の勢力が増すこととなる。
南北朝時代、後醍醐天皇から足利尊氏を討伐するよう命じられた新田義貞は東海道と東山道に大軍を発した。東山道を佐久へ侵入した南朝義貞軍は大井城を取り込み、北朝足利軍は信濃守護小笠原貞宗・信濃惣大将村上信貞に命じて大井城の救援を行ったが落城した。
文明年間(1469年〜1487年)頃の当主大井政光は甲斐へ侵攻するなど、勢力を伸ばしていたが文明15年(1483年)政光が若くして没すると、幼少の弟安房丸が継いで大井城主となる。翌文明16年葛尾城主村上政清がこの機を狙って大井城へ攻め寄せ、大井城は落城し大井氏宗家は一時滅亡する。その後、大井氏支族によって宗家は再興され、天文年間(1532年〜1555年)頃に甲斐の武田氏が佐久へ侵攻するとそれに降った。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れると、北条氏と徳川氏による旧武田領への侵攻が行われた。徳川氏は北条氏の糧道を断つことで戦局を有利にし北条氏は和議を結んで関東へ退き、その後佐久は徳川氏の武将依田信蕃によって平定された。
城は湯川の西岸にある河岸段丘に築かれている。北から南へ石並城・王城・黒岩城と並んで合わせて大井城または岩村田館と称されている。
現在は王城が公園として残されており、南の道路の対岸に黒岩城が見える。
県道9号線岩村田交差点を東へ曲り、県道156号線を進むと湯川に架かる橋の手前左側に公園がある。辺りは道も狭く駐車場もなさそうである。
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