築城年代は定かではないが、大永年間(1521年~1528年)頃に小田井吉六郎副親によって築かれたと云われる。
天文13年(1544年)佐久へ勢力を拡げる甲斐の武田氏の誘いに乗らず抵抗していた小田井氏は、武田氏の板垣信方の軍勢によって攻められ、城主小田井又六郎以下全員討死して落城したという。
天文16年(1547年)には武田氏が志賀城の笠原氏を攻めたが、関東管領上杉憲政が笠原氏に援軍を派遣して小田井原の戦いが起こった。戦いは武田氏の勝利に終わったが、この戦いで小田井城がどのように使われたのかは定かではない。
小田井城は久保沢と井戸沢の深い浸食によって形成された台地に築かれた城で、北を除く三方は極めて急峻な地形となっている。
北端の残る二重空堀から南端まで約600mと、その城域は極めて広く、最終段階がどの勢力によって整備されたのか、また駐屯地なのか城下町を取り込んだのかなど興味深いところである。
城内は農地となっているが、よく残っているのは北端の大空堀と案内版が設置されている北中央の横堀で、南の主郭付近の堀はよくわからなかった。
北端の大堀切は土橋西側の堀底に鋭利な仕切り土塁があり堀底は二重になっている。
北の県道137号線アサヒ紙工のところに道標が出ている。城内まで農道が続いているが、車をおける場所があまりないので、県道から入ったあたりの広い道路に路駐して歩いていくのが良いだろう。
最寄り駅(直線距離)