築城年代は定かではないが笠原氏によって築かれたと云われる。
天文9年(1540年)頃から甲斐の武田氏が佐久へ侵攻し、天文14年(1545年)頃には郡内の諸城は武田氏によって陥落し、残すは志賀城の笠原新三郎清繁のみとなっていた。天文15年(1546年)武田信玄自ら佐久へ侵攻すると、上野国菅原城主高田憲頼父子が援軍として志賀城に駆け付け守備を固めた。さらに関東管領上杉憲政は金井秀景を大将として援軍を送ったが、小田井原で武田の家臣板垣信方や甘利虎泰などと合戦となり大敗を喫してしまった。この合戦の大敗によって籠城兵の士気も下がり、城は陥落、城主笠原清繁をはじめ高田憲頼父子などが討死した。落城後、城内に立て籠もっていた女・子供は捕虜として甲斐へ送られていった。
志賀城は雲興寺の北背後に聳える標高876.9mの山頂に築かれている。
天然の岩肌が露出した急峻な山の上に築かれた城で、山頂の主郭から東西に伸びた尾根に堀切で遮断した曲輪を展開しており、東西の規模はおおよそ400mに及ぶ。主郭には小さな社が祀られており、途中この参道と思われる後世に整備されたような石積の通路があるが、曲輪には所々遺構と思われる石積が残されている。
主郭の東は急峻な細尾根で二条の堀切によって遮断、西下に二郭があり、さらに西へと曲輪が連なる。西端は土塁と堀切で遮断しているのだが、内側に堀、外側に土塁があり、北側山腹へと伸びて遮断している。
雲興寺前の県道を東へ進んでいくと北側の水田にポツンと宝篋印塔が残されており、これが笠原新三郎清繁の首塚と伝えられている。
志賀集落にある雲興寺参道入口に志賀城への道標が出ている。 志賀城へはお寺の東側から墓地へと続く道を登っていけば山頂まで整備された道が付いている。
最寄り駅(直線距離)