築城年代は定かではないが南北朝時代末期頃に村上氏によって築かれたと云われる。 村上氏は清和源氏頼信流で嘉保元年(1094年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まるといわれる。
戦国時代の村上義清の頃には北信濃一帯に勢力を拡げ、天文17年(1548年)の上田原合戦、天文19年(1550年)の戸石城合戦と甲斐の武田信玄を二度敗っている。しかし、天文20年(1551年)戸石城が武田信玄に与していた真田幸隆によって落城し、天文22年(1553年)には一族の屋代氏などが武田氏方に寝返るなど圧迫され、村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち、葛尾城は自落した。その後、義清は越後の援軍を得て葛尾城を攻め落とし、塩田城に入って再帰を計ったが武田氏に敗れ再び越後へ落ちていった。
葛尾城は村上氏居館の北西背後にある標高805mの山頂に築かれている。 城山は五里ヶ峯から南に派生した尾根の先端頂部で、さらに南へ降った標高646mの地点には出城である姫城、西には岩崎城がある。
前回は林道を使って北からアクセスしましたが、今回は姫城と岩崎城を一緒に回るため、西の磯部から登った。この道も背後の林道へと登ってくる。
駐車場は主郭から北へ伸びた尾根にあり、ここに縄張図入りのパンフレットが置いてあった。尾根を南に進むとすぐさま用途不明の石塁遺構がある。尾根上に積み上げた石垣だが、東側がやや窪地となり釜跡とも烽火台跡にも見えるがそもそも葛尾城に関するものかもわからない。主郭に向かって南下すると岩盤を深く刻んだ堀切が三条続く。主郭は南北に長い曲輪で高い切岸があり、北側に低い土塁が付いている。南下には二郭があるが、その先は小段が続くき、最後にハの字の堀切がある。
登山口はいくつかありますが、わかりやすいのは南東麓にある坂城神社。車だと大字坂城字和平地区から林道がある。坂城町の北東部上信越道を潜って和平地区へ向かっていると道標が出ているので迷うことはないが、道は未舗装区間だけでも数キロあり、離合困難な道が続くので注意が必要。ただ林道にしては道は良くアップダウンも少ない。
坂城神社から坂城駅に向かう途中にある「坂木ふるさと歴史館」には村上氏に関する展示がある。
最寄り駅(直線距離)