築城年代は定かではない。天文年間(1532年〜1555年)には葛尾城の村上氏の支城であった。
天文19年(1550年)甲斐の武田信玄が北信の村上氏を攻めるため、村上氏の属城であった砥石城を攻めた。籠城兵はわずか数百であったが、志賀城の残党が中心となっていため士気が高かったと云われ、数千とも云われる攻め手を打ち負かし、武田の武将横田高松も討死した。やがて葛尾城から村上義清の軍勢が後詰めにあらわれると、武田軍は挟み撃ちとなり敗走した。これを「砥石崩れ」と呼んでいる。
武田軍を撃退した砥石城であったが、翌天文20年(1551年)真田幸隆の調略によって落ち、武田勢によって改修された。その後、村上氏は没落し、武田氏も滅亡、やがて真田氏の城となったが、上田城が築かれ役目を終えた。
現在砥石城の標柱が建っているのが標高788.7mの三角点のある峰で、そこから北へ向かうと本城があり、その間に大手口がある。さらに北に枡形城、南西峰に米山城である。
本城と呼ばれ一帯に広い平段の曲輪群があり、一部石積が残る。本城の案内板がある所が本丸で、北側に土塁と大堀切がある。
整備された登山道があり登山口はいくつかある。大手は東麓にある陽泰寺から少し北に進んだ所にあり、陽泰寺近くに駐車できる。道案内がありわかりやすいのは南の登山口で、駐車場やトイレも完備している。ここから登ると砥石城と米山城の間の鞍部に至る。
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