築城年代は定かではないが田口氏によって築かれたと云われる。 田口氏の系譜については定かではないが、かなりの勢力を持っていたようである。
天文年間(1532年〜1555年)に武田氏の佐久へ侵攻により落城。天文17年(1548年)武田氏が上田原合戦で村上氏に敗れると、その混乱をついて田口長能が田口城の奪還を目指したが叶わず武田の家臣小山田出羽守によって討ち取られた。
その後、武田の家臣(相木)依田能登守が城主となったが、武田氏が滅亡して織田信長が本能寺に倒れると徳川家康の家臣依田信蕃が攻め落とし、(相木)依田能登守は北条氏を頼って落ちたという。
城は南北を吉沢川と雨川に挟まれた山の頂部にあり、龍岡城の北に位置する。
北海道の五稜郭は五稜郭タワーから眺めるが、龍岡の五稜郭はこの田口城から眺めることができる。
城は東の尾根に二条の堀切を設け、山頂の主郭から西と北の尾根伝いに広い削平地を段々と連ねている。側面下部には石積が見られ、坂状に積み上げられた石積もあるが、これが城の遺構かどうかはわからない。
南麓の蕃松院は松平康国が父依田信蕃の為に建立した寺院で、依田信蕃の墓碑とされる五輪塔が残る。
龍岡城から西の県道120号線へ出て北上し城山の北側の谷の集落内を通る道を東へ進むと城山に登る林道がある。登山口は確認できていないが、国土地理院の地図ではこの辺りに登り口があるようである。
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