築城年代は定かではないが鎌倉時代に伴野時長によって築かれたと云われる。 伴野氏は清和源氏小笠原氏流で小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭となって入部し伴野氏を名乗ったことに始まるとされる。
弘安8年(1285年)三代伴野長泰の時、鎌倉で「霜月騒動」が起こり、小笠原惣領にあった長泰以下一族の多くが誅され、所領は鎌倉北条氏に没収され伴野氏は衰退する。
その後鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代となると足利尊氏に属した伴野長房が出て勢力を回復していく。はじめ方形居館として築かれた伴野館も勢力の伸張とともに城として拡張され、館を本丸として周囲に曲輪を配して野沢城とも呼ばれる平城となる。しかし文明年間(1469年〜1487年)頃には前山城を築いて居城を移している。
勢力を回復した伴野氏は次第に大井氏と争うようになり、甲斐の武田氏と通じて大井氏と戦い、天文18年(1549年)に伴野左衛門は武田氏に属した。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺で倒れると野沢城は依田信蕃の一族依田肥前守によって攻略され、前山城も依田信蕃によって落城したという。
城は千曲川西岸の平地に築かれており、現在は公園として整備されいる。 周囲には堀の名残と思われる水路が巡り、北半分コの字状に下部を石積で補強した腰巻土塁が残って南に土橋が架かっている。
天正10年の野沢城絵図では伴野神社が建つ南西隅部と北西の出丸に櫓が描かれている。