築城年代は定かではないが島津氏によって築かれたと云われる。 島津氏は戦国大名として著名な薩摩の島津氏と同族で、長沼郷の地頭職であった。
戦国時代には上杉氏に従っていたが、弘治年間(1555年〜1558年)頃には武田氏に従うようになった。永禄11年(1568年)武田氏は長沼城を改修し、海津城とともに北信の拠点の一つとなった。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると北信四郡には織田信長の部将森可長が入り海津城を居城とする。これに対して若宮城主の芋川氏らが上杉氏の支援を受けて一揆を起こし、長沼城や飯山城を攻めたが森氏によって鎮圧された。しかし、織田信長が本能寺の変で倒れると森長可は信濃から撤退、北信四郡は上杉領となり、長沼城へは島津忠直が入った。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると島津氏もこれに従って移った。 その後は豊臣秀吉の蔵入地となって代官関一政が入る。関ヶ原合戦の後は松平忠輝が川中島を領し、山田長門守が長沼城へ入った。
元和2年(1616年)大坂の陣の戦功などによって川中島や近江国高島など一万八千石を領した佐久間勝之が長沼城に入って長沼藩となった。佐久間勝之は織田氏の部将佐久間盛次の四男である。
元禄元年(1688年)四代藩主佐久間勝茲は五代将軍徳川綱吉の側小姓を命ぜられたが、病気と称してこれを辞退、後に仮病とわかって綱吉の怒りを買い、長沼藩は改易、勝茲は陸奥国二本松藩丹羽家にお預けとなった。
長沼城は千曲川に面した平地に築かれていたという。特に明瞭な遺構はないようであるが、堤防の下にある天王宮は馬出しの土塁でその脇に三日月堀があったらしい。
貞心寺の北東にある堤防の上の道路沿いに新しい案内板がある。この堤防の下に天王宮があり、ここにも案内がある。
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