詳細不明。鎌倉時代の若槻氏の城とも云われるが、若槻氏に関しては詳らかではない。
応永11年(1404年)大塔合戦の後、幕府方の市川氏幸が若槻下芋河之要害を攻め落とすことに成功している。この頃、若槻のあたりは高梨氏一族の知行であることから、若槻城は高梨氏の支城と考えられている。
若槻山城は三登山から南へ派生した尾根の一つ、標高675m付近に築かれている。この上には番城、下には堂沢出丸、麓には里城がある。
主郭は標高675m付近にあって土塁が巡る大きな曲輪である。主郭から南東の尾根に向かって数段の大きな段曲輪が続いており、北側に土塁が付いている。また主郭から南側面に二条の竪堀があり、その間にも段曲輪がある。
主郭背後の空堀が圧巻で、三条の堀切はそれぞれ竪堀となって東西に伸びているが、東へ伸びた竪堀が長大で美しく、山腹で合流している。
山腹に林道があり、そこから少し登った辺りには堀切があり、林道付近から上がほぼ城域である。
西の県道37号線から林道に入り道なりに進んで行けば若槻山城入口の道標がある。ここまで林道は未舗装だが、道幅はしっかりとしている。(地図)
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