築城年代は定かではない。史料による初見は天文24年(1555年)で、武田信玄が善光寺の別当栗田鶴寿を味方に引き入れると、上杉謙信が葛山城を拠点とし、信玄は旭山城に兵三千と弓八百張、鉄砲三百挺を送り込んで対応した。このときは長期戦となり、今川義元の仲介により和睦、その条件として旭山城の破却が盛り込まれていた。
弘治3年(1557年)武田信玄は葛山城を急襲して攻め落とすと、今度は上杉謙信が旭山城を修築して拠点とし武田氏と対峙した。 永禄4年(1561年)の川中島合戦の後、上杉方の守将小柴見宮内を討った武田氏が旭山城を占拠した。その後は海津城や長沼城が重要拠点となっていった。
旭山城は標高785mの旭山山頂に築かれており、葛山城とは裾花川を挟んで対峙している。
主郭は山頂にあって方形で土塁が周囲を巡っている。主郭の北東側は深い堀切によって断ち切られ、その外に小郭を挟んでもう一条の堀切が北尾根に残る。主郭から東へ伸びた尾根には堀切を挟んで東西に長い曲輪があり、その先も堀切と削平地が続き、先端に展望台となった曲輪がある。
旭山城は全体的に石積がされていたようで、その残骸が至る所に残っている。状態の良い石積は本丸の西側の南斜面辺りで、竪堀付近や南側の帯曲輪、横堀の所が良く残っている。
旭山の南側中腹にある朝日山観世音堂を目指す。観世音堂の駐車場からそのまま車道を歩いて行くと、しばらくして林道朝日山線入口の看板がある。この林道は直ぐに行き止まりとなるが、この終点から登山道が付いている。
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