築城年代は定かではないが小田切氏によって築かれたと云われる。
海野氏の庶流小田切氏の館で、応永7年(1400年)の大塔合戦に加わっている。
弘治3年(1557年)小田切駿河守幸長は葛山城で武田氏と戦って討死したが、その子小田切民部少輔は逃れ、後に武田勝頼に召し抱えられた。天正10年(1582年)武田氏は滅亡すると、上杉景勝に従った。
内後館は円成寺の南、圓光寺の西の辺りに築かれていた。現在は辺り一帯宅地であるが、その一角に小田切神社があり、そこに「小田切氏上屋敷跡」の看板が建っている。
東にある圓光寺には小田切駿河守の墓が残されているという。また近くの於下館は小田切氏下屋敷と呼ばれている。