弘治元年(1555年)上杉謙信によって築かれた。 弘治元年7月善光寺平に出陣した上杉謙信は横山城に着陣した後、葛山城を築いて武田氏方の善光寺別当栗山氏の籠もる旭山城と対峙した。 上杉氏と武田氏の対峙は長期にわたり今川義元の仲裁によって和議となり、旭山城は破却された。
弘治3年(1557年)2月落合備中守ら葛山衆の籠もる葛山城を武田の家臣馬場信春が急襲して落城した。これに対して上杉謙信は旭山城を修復して拠点として葛山城を攻略するが、永禄4年(1561年)の川中島合戦の後、上杉氏らは善光寺平から退き、葛山城は武田氏の属城として長沼城の葛山衆が在番していた。
葛山城は善光寺の北西にある標高812mの葛山山頂に築かれている。裾花川を挟んで南側に旭山城があり、北東には大峰城がある。
葛山城は山頂の主郭を中心に西、東、北の三方に伸びる尾根に曲輪を展開し、南尾根の先端にある頼朝山も出城と思われる。
主郭はそれほど大きくないが、東西両側を二重堀切で遮断しており、特に西側は幅が狭にが深い鋭い堀切になっている。西尾根はその先にも堀切があり、曲輪が続いて尾根は先端の段曲輪となる。北尾根も曲輪と堀切の連続で、北端は二重堀切になっている。
主郭の東にある幅広の尾根上に無数の連続堀切を設ける遺構がこの葛山城の最大の特色であるが、この辺りは笹薮で前回よりは刈られていたが、見学し辛いのが難点である。 この場所は本来曲輪となるべき地形であり、あるいは元々は曲輪であったが、曲輪では不都合、つまり兵力が足らないなどの理由から、連続堀切を設けて曲輪として利用できなくしたような感じである。ここから東尾根へ降って行くと、さらに堀切が要所に設けられ、標高710m付近に至ると、広いなだらかな平坦地形になる。ここに一部土塁囲みの遺構があり、北東下に堀切が一条ある。
主郭から南には畝状竪堀群がビッシリありその間に登山道がある。これを下ると頼朝山との鞍部にでるが、この頼朝山も城跡のようで、鞍部に堀切、その先も段曲輪が続いている。
登山道はいくつかあり、南の静松寺、東の往生寺、北の笹峰聚落が一般的。
葛山登山用の駐車場がある北の鑪集落にある葛山神社から少し北へ進んだ所に林道入口があり、登山口の案内がある(地図)。
最寄り駅(直線距離)