築城年代は定かではない。鎌倉時代に小笠原信濃守長清が築城し、九男長隆が大倉氏を称して居住したとも伝えられる。
永正年間(1504年〜1521年)には上杉氏に従っていた島津氏の城であったが、永禄年間(1558年〜1570年)に武田氏に追われ島津氏は上杉氏を頼って越後に落ちた。
天正10年(1582年)織田信長が武田氏を滅ぼすと、川中島には森長可が入部したが、それに対抗して芋川氏を大将とする一揆軍が大倉城に立て籠り、織田軍と戦ったが敗れ、殲滅された。
大倉城は鳥居川と嘉児加川との間にある比高90m程の山に築かれており、現在は城跡公園として整備されている。
大倉城は川の間を細長く東西に伸びた尾根に築かれている。主郭は東西に長く北西下に一段井戸のある曲輪を持つ。西背後は圧巻の五重堀切で曲輪に一番近い部分と一番遠い部分が大堀切となっている。主郭の東は堀切を経て小さく三段程に分かれた二郭があり、さらに堀切で区画された曲輪が東端にある。
登山口は東麓と西側尾根上にあり、主郭を経て周遊することができる。東の麓にある案内板の辺りに駐車して周遊した。
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