築城年代は定かではないが須田氏によって築かれたと云われる。
須田氏は為光あるいは為実を祖とする井上氏の一族で、高梨氏などとも同族である。 室町時代の須田氏は惣領家が須田城を居城とし、有力庶家の大岩須田氏が大岩城を居城としていた。
戦国時代になって武田信玄が信濃北部に侵攻、上杉謙信がこれに対抗するようになると、須田城の惣領家須田信頼は武田氏に従うが、大岩城の須田氏は上杉氏を頼って大岩から退去した。
武田氏に従った須田氏は信頼の子信正のときに武田氏が滅亡、本能寺の変の後は上杉氏を頼った。また、大岩須田氏からは著名な須田満親が出ており、こちらは天正13年(1585年)に海津城代となっている
慶長3年(1598年)上杉景勝は豊臣秀吉によって会津に転封となるが、須田満親はこれに随行せず信濃に残り、次男須田長義が梁川城代としてこれに従った。
須田城は臥竜公園の一角にある山に築かれており、現在は公園として整備されている。
主郭は山頂にある小さな曲輪で、西側に堀切を挟んで二郭がある。この堀切は通路を兼ねているようで、脇に石積をともなう土塁で囲まれた枡形空間があり虎口になっている。
公園化にともなっていくつもの遊歩道があるため城道がわからなくなってしまっているが、主郭部周辺には小さな腰曲輪、帯曲輪がある。
西に下ると東屋がある広い尾根、北東に下ると堀氏墓所や観音堂がある広い尾根があるが、このあたりが城域に含まれるのかどうかははっきりいない。
昌福寺のあたりが居館跡という。
臥竜公園に無料駐車場があり、動物園脇や観音堂に向かう遊歩道がある。
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