築城年代は定かではないが和賀氏によって築かれたと云われる。 和賀氏の出自は定かではないか武蔵七党の一つ横山党の中条氏の後裔とも源頼朝の落胤とも云われる。
二子城は和賀郡一帯に勢力を持ち天正18年(1590年)の奥州仕置によって滅亡した和賀氏の本城である。
二子城の名前の由来は秋葉神社の祀られた西の山と八幡神社の祀られた東の山に由来する。和賀郡で最大の規模を誇り、周囲には家臣団の屋敷跡が残る。
西の秋葉神社の祀られた山は物見と考えられ、現在水道施設が建っているが発掘調査によって小屋風竪穴遺構が一箇所見付かっている。
東の八幡神社のある山が詰城で、西下に横堀が巡っている。 大手門跡はこの東西の二つの山の谷の南側で「大手門跡」の石碑が建っている。
東麓にある白鳥社、和賀社の建つ所が「古館」と呼ばれ城主の平時の館跡である。