築城年代は定かではないが南北朝時代とに築かれたとされ、岩崎大炊の居城であったと推測されている。
この辺りは鬼柳氏と須々孫氏との境界であったようで、暦応4年(1341年)岩崎楯で鬼柳氏と須々孫氏との間で合戦があり、鬼柳清義が討死した。享禄4年(1531年)和賀氏と仙北の小田鴨党との合戦には岩崎氏も参陣していることなどから、代々岩崎氏の居城であったと推測されている。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置きによって和賀氏は滅亡し、天正20年(1592年)南部氏によって破却されたが、慶長5年(1600年)和賀氏の残党和賀忠親が岩崎一揆を起こして岩崎城に立て籠り、その中に岩崎弥右衛門義彦の名がある。一揆は南部氏によって鎮圧され、伊達氏との国境警備の為に城は修築され慶長7年(1602年)南部家臣柏山伊勢守明助が入った。その後の廃城年代は定かではない。
岩崎城は和賀川に夏油川が合流する付近にあり、夏油川に沿った丘陵に築かれている。
城山は夏油川によって南側を大きく削られている。岩崎城運動公園から登った所にあるのが広大な三の丸で桝形の虎口と2m程の土塁が周囲を取り巻いている。その先に空堀を挟んで本丸があり、天守を模した公民館が残っているが、老朽化の為に入口の柵に鍵が掛けられ入れなくなっている。この本丸の入口も桝形虎口である。
本丸の門扉の鍵は平日9:00〜16:00まではいわさき小学校隣の岩崎地区交流センターで貸し出してもらえるようである。休日は忍びの術を使うしか方法はない。
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