築城年代は定かではない。伝承によれば源満仲の家臣藤原仲光の居城とされる。
戦国時代は和賀氏の所領であり、その規模は北上川東岸の城郭では更木城に次ぐものであることなどから、現在の状態は戦国時代に和賀氏によって築かれたものと推測されている。
城は北上川の東岸にあり、東から西へ伸びた舌状の丘陵に築かれている。
東端の通称「一ノ台」から西端の「五ノ台」までの曲輪群を列べた連郭式の縄張で、北側に空堀を巡らせ、南側は湿田であったという。昭和59年に一ノ台の一部が発掘調査されたが、遺物が全く出土せず、未完成と見られる部分もあることから、完成間際に何らかの理由によって破棄された可能性がある。
一ノ台から三の台までは一つの曲輪で、四ノ台の北東側に土塁と土橋が架かり虎口と見られる部分がある。