永仁3年(1295年)吉見頼行によって築かれたと云われる。 吉見氏は清和源氏、源範頼の末裔で武蔵国横見郡吉見庄を本貫とする。 石見吉見氏の祖とされる吉見頼行は能登吉見氏の庶流で、弘安5年(1282年)に石見に下向し木曽野に吉見氏居館を構えた。
天文20年(1551年)周防国大内義隆が家臣陶晴賢によって滅ぼされると、義隆の姉を妻としていた吉見正頼は晴賢と対立し晴賢によって攻められた。この戦いでは100日以上に及ぶ籠城戦の末に和睦となっている。陶氏と吉見氏が互いに味方に付けようとした安芸の毛利元就が反大内となったことからで、厳島合戦で陶晴賢が毛利元就に敗れて討死すると、吉見正頼は毛利と同調して山口へ侵攻している。
その後は毛利氏に属したが慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れた毛利氏は防長2ヶ国に減封となり、吉見氏も毛利氏に従って長門国萩に移った。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦で戦功のあった坂崎直盛が三万石で入封し、近世城郭として大改修した。坂崎直盛は備前の大名宇喜多直家の弟宇喜多忠家の子である。 大坂の役で千姫を救出した功として一万石の加増を受けた直盛だったが、千姫に嫁ぐことを拒否され、強奪を企てようとしたいわゆる千姫事件によって元和2年(1616年)に自刃し坂崎氏は改易となった。
元和3年(1617年)代わって因幡国鹿野城から亀井政矩が四万三千石で入封、以後代々続いて明治に至る。
津和野城は津和野川に面した南へ伸びた山に築かれており、北端は蕪坂峠、南端は中荒城で約2kmに渡って築かれている。この内、本丸の築かれた山頂とその北にある出丸(織部丸)、そして東麓の藩庁が近世城郭部分で、その周辺一帯には堀切や土塁などで築かれた中世三本松城の遺構が色濃く残っている。
吉見氏によって築かれた当初は一本松城と呼ばれていたが、のちに三本松城と呼ばれるようになった。吉見氏時代の大手は西の喜時雨側で、近世になって東が大手に変わった。
中世の山城から近世の山城に改修したのは関ヶ原合戦後に入部した坂崎直盛で、このとき初めて本格的な石垣の城に作り変えられた。
主郭は近世城郭の石垣造りで、本丸、二の丸、三の丸などを配置し、北に織部丸と呼ばれる出丸を配している。天守は本丸ではなく、二の丸に築かれ、天守台の上に三重の天守があった。出丸が織部丸と呼ばれるのは築城を指揮した浮田織部からとったものである。
近世城郭ではあるが南門から更に南に降りて行くと、中世の南出丸などが残っており土塁の残る曲輪、三重の堀切、大きな堀切やそこから落ちている巨大な竪堀などが良く残っている。また、リフト乗り場からさらに北へ続く尾根にも遺構があり、蕪坂峠近くまで達する。南端にある中荒城には放射線状に伸びた畝状竪堀群が良好に残っており、そのまま鷺原八幡宮に下ることができる。
城山と津和野川の間にある平地部には津和野藩の藩庁があり、大部分は津和野高校のグラウンドとなっているが、庭園部分が嘉楽園として残っており物見櫓と馬場先櫓が現存している。
馬場先櫓(現存 櫓)
物見櫓(移築 櫓)
太鼓谷稲成神社を目指していくと観光リフト乗り場があり、簡単に山上まで上がることができる。
登山道を登る場合、太鼓谷稲成神社側や南の尾根先にある鷲原神社からも道がある。大手口は嘉楽園から県道沿いに南へ進んだ所にあり、ここから登ると本丸と出丸の間に出る。(大手口)
最寄り駅(直線距離)