天文23年(1554年)陶晴賢によって築かれたと云われる。
天文20年(1551年)陶晴賢は主君大内義隆を討ち、大内義長を新たな当主として迎えたが、義隆の姉を妻としていた吉見正頼はこれを良しとせず対立した。
天文23年(1554年)陶晴賢は吉見正頼を討つべく津和野へ侵攻する。三本松城に籠城した吉見氏を攻略するための本陣として築いたのがこの陶晴賢本陣とされる。この戦いでは100日以上に及ぶ籠城戦の末に和睦となっている。陶氏と吉見氏が互いに味方に付けようとした安芸の毛利元就が反大内となったことからで、厳島合戦で陶晴賢が毛利元就に敗れて討死すると、吉見正頼は毛利と同調して山口へ侵攻している。
陶晴賢本陣は三本松城から津和野川を挟んで南に位置する標高420mの山に築かれていた。
現在山頂部には無線中継施設がいくつも建っており、山上まで林道が通っている。 遺構はあまりめぼしいものがなく、東西に伸びた丘陵に階段状の遺構が残っている程度である。
山上まで未舗装林道が通っている。道幅は十分で終点に駐車場もあるが、両側から竹などが張り出している部分などもあって道は良くない。比高も余りないので歩いて登るのが良いだろう。
最寄り駅(直線距離)