築城年代は定かではないが南北朝時代には築かれていたという。
天文年間(1532年〜1555年)の城主は波多野蔵助滋信で、三本松城主吉見隆頼の娘婿であった。陶晴賢が大内義隆を討つと天文22年(1553年)義隆の娘婿であった吉見正頼が挙兵したが、陶晴賢はこれを討つべく進軍し、波多野氏の籠もる賀年城を攻めた。波多野氏はよく防戦したが、家臣の田中某が陶に内応し落城、滋信も討死したという。
賀年城は嘉年小学校の南西に聳える標高516.4mの勝山に築かれており、山頂部の曲輪i(主郭)と南東尾根の曲輪iiから成る。
主郭は小さく三段程に分かれた東西に長い曲輪で、東の南淵に若干の土塁が残り、現在の登山道はその少し西側に登ってくるようになっている。主郭の西端から南へ伸びた尾根に堀切2がある。主郭の東端から北東へ降りた所に腰曲輪と細長い帯曲輪がある。
南東尾根にあるのが曲輪iiで、小さく南北二段となり北と西に土塁が残る。この鞍部から南へ降りる谷間に堀1があり、谷間に落ちる竪堀に対して曲輪iiから二条の連続竪堀が落ちている。この辺りは近年の水害によるものだろうか、土砂崩れがおきていて以前来たときの地形がなくなってしまっている。
近年の土砂災害(2013年か)のためか、以前あった登山道入口の標柱や案内板もなくなっていた。城跡はそれなりに整備されているようなので、登山道も時期に回復するかもしれないが、一部土砂崩れが起こっている。
登山道の入口は南東麓の市場地区にあり、毎日新聞の看板のあるプレハブ小屋が目印である(地図)。ここから林道を入って行くと途中広い駐車スペースがあるが、その北側の山裾を東へと進んでいく小道がある。これをしばらく進み北の谷を登っていけば南東の鞍部に出る登山道となる。
最寄り駅(直線距離)