築城年代は定かではない。
文明2年(1470年)大内教幸の変(道頓の乱)で、教幸方の吉見信頼が元山城を攻めたが、陶弘護の軍勢に敗れたと云われ、山頂に鐘掛松と呼ばれる合戦時に早鐘を掛けた松があったと云われる。
また、陶晴賢が吉見正頼を攻めた際にこの元山城を築いたとも云われる。
元山城は徳佐駅の西、阿武川が大きく蛇行する地点にある標高411mの山に築かれている。
主郭部は曲輪群aで、切岸が高く削平状態も良く他の曲輪群とは異なる普請となっている。最高所は北端の曲輪で北に土塁があり、北西部に方形の凹み、中央にもやや窪地がある。ここから東へ伸びた尾根の曲輪、さらに南尾根の曲輪へと通路が付いている。南端は一段小高くなっている。
主郭の北下鞍部にあるのが堀1だが、ほぼ埋もれておりかすかに北西側に竪堀となって伸びている。南尾根の堀2は北側に二重堀切、少し間を開けて一条の堀切がある。南東尾根には堀3、堀5があるが何れも幅が小さく小規模である。
主郭部の東下にある曲輪群bは不整形な曲輪で西側の堀1は二重堀切となり、堀切に面して分厚い土塁のような地形を残す。そこから東へ通じる曲輪はすり鉢状で、切岸も曖昧なまま東尾根へと続いていく。
東尾根の東端部にある曲輪群cは主郭に次いで明瞭な曲輪群で、頂部の曲輪を中心に帯曲輪がある。
主郭から北へ伸びた尾根には曲輪群dがあるが、何れも小規模な段曲輪遺構や堀状、土塁状遺構が間隔を開けて続いている。北端部はやや加工された東西二段になった曲輪になっている。
北端の曲輪群eは南の鞍部から登り詰めた所にあり頂部の小さな円形の曲輪を中心に帯曲輪があり、北東側に段曲輪が続いているが、何れも小規模である。
主郭から南へ伸びた尾根にも曲輪群eがあり頂部が削平されている。その南には堀7があるが、地形から切り通しであったのかもしれない。
尾根上まで登れば尾根道がある。北の鞍部へ登るか、北西尾根先へよじ登るか。
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