永仁3年(1295年)吉見頼行によって築かれたと云われる。 能登吉見氏の庶流吉見頼行が地頭職として入部して木曽野に館を構え、永仁3年(1295年)に三本松城の前身として築いたのがこの中荒城と云われる。
天文23年(1554年)吉見氏が陶晴賢によって攻められたとき、陶晴賢はこの中荒城と津和野川を挟んで対峙する山に本陣を構えていた。
中荒城は三本松城のある山の南端、鷲原八幡宮の北東の標高332mに築かれている。 津和野城の中世山城遺構は、近世本丸からこの中荒城まで累々と築かれており、この中荒城も実質的には三本松城の一部である。
中荒城の主郭となるのは曲輪Iで隣接する曲輪II、Vとの段差も小さい。北西側に通路が確保されておりAの部分が虎口となるが下方の曲輪との通路ははっきりしない。曲輪I、IIの辺りには石積があり周囲に石もたくさん落ちている。
主郭の南下から北西側にかけて畝状竪堀群1、2がある。特徴としては尾根部分のみ鋭角に竪堀が交わるが、側面は5m前後の横堀と結合した竪堀になる。横堀の深さは現状で1m前後である。北西側の畝状竪堀群2は一段下がった位置にあるが、これは曲輪群IVからの高低差を確保するためであろう。
麓の鷲原八幡宮から津和野城本丸に続く中国自然歩道の途中にある。分岐点に案内板もあるのでわかりやすい。
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