築城年代は定かではないが戦国時代に岡見氏によって築かれたと云われる。 岡見氏は小田氏の一族で常陸国河内郡岡見郷発祥とされ、南北朝時代頃に分流したと考えられている。
岡見氏は代々小田氏に従っており、永禄12年(1569年)手這坂の合戦では岡見山城守も出陣して討死してる。手這坂の合戦で大敗した小田氏は、天正元年(1573年)頃には佐竹氏に臣従したが、岡見氏はその後も独立した勢力を維持している。
小田氏の勢力が衰退し、佐竹氏側の下妻城主多賀谷重経が勢力を拡大してくると、岡見氏はこれに対抗することとなるが、元亀元年(1570年)には谷田部城が落城、天正8年(1580年)には一時谷田部城を取り戻すが、再び攻め取られ、天正15年(1587年)には牛久城主岡見治家の兄宗治の居城である足高城も落城した。こうした情勢のなか、岡見氏は小田原北条氏に支援を要請し、次第にその支配下に属していくようになる。
小田原北条氏は佐竹領に隣接する牛久城を重要視し、天正15年(1587年)頃から下総国小金城主高城氏、下総国布川城主豊島氏、上総国坂田城主井田氏など近隣の国人たちに交代で牛久城を守るよう命じており、牛久番と呼ばれていた。
天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐により岡見氏は北条氏とともに滅亡した。
その後は、由良国繁が上野国桐生城から五千四百石余りで牛久城に入った。関ヶ原合戦で国繁は江戸城の守備を命ぜられ、その恩賞として千六百石が加増され七千石の大身旗本となった。しかし、元和7(1621年)由良貞繁が嗣子なく没すると、弟忠繁が家督相続を許されたものの、家禄は千石に減封された。この元和7年(1621年)に廃城になったとされる。
牛久城は牛久沼の北にある城中町一帯に築かれている。
牛久城は外郭を含む城域は極めて広く、主郭部のある南端は根小屋と呼ばれる所、北端の大手門跡は得月院の少し北側にあり、南北900mの規模がある。
主郭部は台地の南端にあり、大きな空堀と土塁によって区画された曲輪が三つ残っている。 主郭ははっきりしないが北東側の最高所の部分であろうか。(案内板の縄張図は南の二郭を主郭とする。)この曲輪は土塁がめぐり、北は巨大な空堀、東は急斜面に竪堀が残されている。南は空堀を挟んで二郭、西下に三郭がある。
主郭の南に位置する二郭は南を除く三方に空堀が巡り、南西に土橋が架かる。北の曲輪とは木橋が架かっていたものと思われる。土塁は北側に部分的残る他は付いていない。
主郭の西下にある三郭は東を除く三方に土塁が巡り、北東隅部に虎口があり、外側の空堀に土橋が架かる。この虎口を入ってすぐに東へ曲がると主郭になる。南東端にも土塁の開口があり、通路が南へ伸びる。この通路の先に二郭に通じる土橋が架かる。
北へ続く外郭部分は田畑や宅地となっており、遺構の残存は良くはないが、空堀や土塁が部分的に残存する。
城中公民館の所に車を駐めて歩いて見て回ったが、主郭部は北側の入口付近に車を駐めるスペースがある。
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