観応元年(1350年)桐生国綱によって築かれたと云われる。 桐生氏は「吾妻鏡」で足利俊綱を殺害した桐生六郎の名が知られる。桐生国綱は桐生氏中興の祖と云われ佐野氏から養子に入った人物である。
桐生氏は桐生助綱のときに全盛を迎える。天文13年(1544年)菱の細川内膳、善因幡守を敗って勢力を拡大し、永禄3年(1560年)には上杉政虎に奉じられて関東入りした上杉憲政の警固をしている。
助綱没すると、佐野氏から養子に迎えていた親綱が家督を継いだ。桐生親綱は家中をまとめることができず内紛状態となり、諫言した里見上総入道を討つなど家臣の離反を招いた。 元亀3年(1572年)由良成繁の軍勢が桐生城を急襲し落城、親綱は佐野氏を頼って落ちた。
由良成繁は桐生城代として横瀬長繁を置き、天正2年(1573年)由良成繁は隠居して金山城を国繁に譲ると、自身は桐生城を居城とした。天正6年(1577年)由良成繁が没すると、桐生親綱が桐生城の奪還を計ったが失敗している。
天正14年(1586年)由良国繁が金山城を追われると桐生城に本拠を移した。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で国繁は小田原城に籠城させられたが、母妙印尼は嫡男貞繁を率いて松井田城の前田利家に従い各地を転戦した。この功によって戦後、由良国繁は常陸国牛久五千四百石余り、弟渡瀬繁詮は遠江国横須賀三万石が与えられた。
桐生城は柄杓山城(桧杓山城)とも呼ばれ、標高361.0mの城山(柄杓山)山頂に築かれている。
桐生城は山頂に置いた本丸から西北西に伸びた尾根に二ノ丸、三ノ丸を配している。 麓に近い南東尾根にも中坂郭と呼ばれる曲輪があるが、こちらは西側に比べて堅固ではない。
本丸への道はハイキングコースとして整備されており、本丸は展望台となって整備されている。本丸の西下に裾を回る空堀が一条あり、北下は帯曲輪が付いている。
西北西の尾根にある二ノ丸、三ノ丸へは大きな堀切で遮断しており、二ノ丸と三ノ丸は二重堀切になっている。二ノ丸はやや自然地形の残る大きな平段であるが、三ノ丸は南側に通路があるものの、殆ど自然地形の小さな段である。
二ノ丸の西端から北へ伸びた尾根にあるのが北曲輪で、この部分は東西二段で西端に土塁が付き、北下には堀切に土橋が架かり外側に土塁を設けた馬出のような曲輪が付いている。
主郭から南東の尾根を100m程降りた所にあるのが坂中郭で、主郭側に堀切と土塁を設け、社が祀られている。
麓の渭雲寺付近が居館跡で、当初の居館であった梅原館から移されたのがこの地だという。
桐生城へは南麓から登る道と北側の林道から登る道がある。
南麓の登山口は渭雲寺の隣にある日枝神社にある。林道は県道66号線をさらに北上した所に入口があり道標が出ている。林道の途中に駐車場があり、こちらからの比高は約100m程である。坂中郭が山頂から麓側に100mも降った所にあるため、この遺構を見るなら素直に麓から登った方が良かった気がする。
最寄り駅(直線距離)