築城年代は定かではない。足利泰氏の子孫である小俣氏によって築かれたとも云われる。
小俣氏は足利氏の内部政争によって勢力を失い、その後は小俣渋川氏が入部した。
小俣渋川氏は古河公方、のちに小田原北条氏に従った。元亀3年(1572年)には関東へ侵攻した上杉謙信の軍勢によって攻められたが、城代石井尊空が死守してこれを撃退した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、小俣渋川氏は由良成繁、長尾顕長なとともに小田原城に籠城、竹の鼻口を守備したが、小田原北条氏の滅亡とともに小俣渋川氏も滅亡した。
小俣城は鶏足寺の北に聳える標高304.7mの城山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
三角点のある標高304.7mの山頂に主郭があり、そこから東へ伸びた尾根に曲輪を展開している。
主郭は中央東に虎口を開き、東下から北下にかけて腰曲輪となるが、北側は横堀状である。主郭から北尾根には不明瞭な削平段が続くが堀切は見当たらない。西尾根側はやや崩れた堀切8が確認できる。
主郭から東へ堀切を挟んで曲輪II、IIIと続くが曲輪の造成は甘い。堀切5が一番低く、そこから高く東端の曲輪IVとなる。
曲輪IVの東端から北へ続く尾根には堀切4、3の二箇所、南東に続く尾根にも堀切2、1の二箇所に堀切がある。堀切2は弓なり状で西端を竪堀とする。堀切1は状さほど深くないが、幅広の堀切である。
登山道は南東麓の宝珠坊橋とカタクリ群生地の2ルートがある。 カタクリ群生地登山口はやや遠回りのようであるが、急坂がなく楽に登ることができる。
春日神社前の叶花集会所に駐車して周遊ルートを歩くのが良いだろう。
最寄り駅(直線距離)