築城年代は定かではないが寛正年間(1460年〜1466年)頃に多賀谷氏家によって築かれたと云われる。 多賀谷氏は埼玉郡騎西荘多賀谷郷発祥で武蔵七党の一つ野与党に属した。 寛正年間(1460年〜1466年)頃に多賀谷家氏は武蔵国多賀谷氏館より下妻へ移り、下妻城を築いたという。
嘉吉元年(1441年)結城合戦で多賀谷氏家は結城氏に付き、結城城が落城すると結城氏の遺児を連れ出して結城氏の再興に尽力し、享徳3年(1454年)には古河公方足利成氏の命によって関東管領上杉憲忠を討ち、その功によって関荘を与えられ築城したという。
下妻多賀谷氏は戦国時代末期には佐竹氏との結び付きを強め、多賀谷重経は佐竹から宣家を養子に貰い受け多賀谷氏を継がせた。これによって重経の長男三経は太田城を築いて、太田多賀谷氏となる。 下妻多賀谷氏は佐竹氏の転封にともない出羽国久保田へ移って廃城となった。
現在は本丸跡が多賀谷城址公園として残っているのみである。