貞永元年(1232年)下妻長政によって築かれた。 南北朝時代の城主は下妻政泰で、北畠親房に呼応して南朝方として挙兵する。
暦応4年・興国2年(1341年)北畠親房は小田城から関城へ移り、春日中将顕国は興良親王を奉じて大宝城に入城する。 これにより、足利尊氏が派遣した高師冬の攻撃にさらされ、康永元年・興国3年(1342年)には、関城と大宝城との連絡が断たれた。 康永2年・興国4年(1343年)高師冬は軍を二手にわけて関城と大宝城を攻め、同じ日に落とした。
大宝城は南朝方の関東六城(常陸国関城・常陸国真壁城・常陸国大宝城・常陸国伊佐城・常陸国中郡城・下野国西明寺城)の一つに数えられる。
大宝八幡宮一帯が城址で、八幡宮の北側には土塁と空堀が残り、南側の参道にある鳥居付近に高土塁が残されている。
関城付近からこの大宝城一帯までが国指定史跡として指定されている。