建久3年(1192年)関朝泰によって築かれた。 関氏は常陸国真壁郡関発祥で、結城朝広の四男朝泰が関に住んで関氏を名乗ったことに始まる。
南北朝時代の城主は関宗祐で、北畠親房に呼応して南朝方として挙兵する。 暦応4年・興国2年(1341年)北畠親房は小田城から関城へ移り、春日中将顕国は興良親王を奉じて大宝城に入城する。 これにより、足利尊氏が派遣した高師冬の攻撃にさらされ、康永元年・興国3年(1342年)には、関城と大宝城との連絡が断たれた。 康永2年・興国4年(1343年)高師冬は軍を二手にわけて関城と大宝城を攻め、同じ日に落とした。
関城は南朝方の関東六城(常陸国関城・常陸国真壁城・常陸国大宝城・常陸国伊佐城・常陸国中郡城・下野国西明寺城)の一つに数えられる。
城は大宝沼に半島のように南へ突き出た地に築かれていたという。 現在では開墾されて田畑や住宅地となっているが、この関城の攻防で城外から掘られた坑道といわれる横穴が残り、土塁跡が散在して残されている。