天慶3年(940年)藤原秀郷が築いたのが始まりとされる。 藤原秀郷は平将門がおこした承平天慶の乱を討伐するために、上館(久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城)を築いたという。
また鎌倉時代には伊佐為宗によって築かれ、南北朝時代には伊佐氏と伊達氏が南朝方の小田城に籠る北畠親房に呼応して、関城・大宝城など南朝方に属する諸城と連係して北朝方の高師冬の攻撃に耐えていたが、南朝方の諸城は陥落し伊達氏は陸奥へ逃れた。
伊佐城は南朝方の関東六城(常陸国関城・常陸国真壁城・常陸国大宝城・常陸国伊佐城・常陸国中郡城・下野国西明寺城)の一つに数えられる。
城は五行川の西岸に築かれ、川に沿って南北に縄張されていたと考えられ、現在観音寺の本堂が建つ小高い所が本丸跡とされている。
現在城跡には観音寺が建ち本丸に石碑が建てられているが、遺構はほとんど残されておらず、本堂から観音堂へ向かう通路脇に土塁状の高まりがわずかに残っている程度である。