治承年間(1177年〜1180年)に結城朝光によって築かれたと云われるが定かではない。 結城氏は小山政光の四男で母は源頼朝の乳母寒河尼という。十四歳の時に武蔵隅田宿で陣を張っていた源頼朝に参見してその場で元服し、「朝」の字を賜わり朝光と名乗った。その後、下総国結城郡の地頭職を得て築いたのが結城城の始まりとされる。
16代結城政勝の時には下妻・下館・長沼・小山などに勢力を広げて戦国大名化する。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐には結城晴朝がいち早く参陣し、十万石の安堵を得るとともに、秀吉の養子となっていた徳川家康の二男秀康を養子に迎え、18代結城秀康となった。
慶長6年(1601年)結城秀康は越前国福井六十七万石に転封となって結城城は廃城となり、その後は天領となった。元禄13年(1700年)水野勝長が能登国西谷より一万石で入封。元禄16年(1703年)廃城となっていた結城城を再築して居城とし、以後明治に至る。
城は田川と鬼怒川によって生まれた河岸段丘に築かれ、空堀で区画された実城・館・中城・西館・東館の各曲輪で構成していた。
現在、城跡歴史公園となっているところが館で、江戸時代の水野氏の時に本丸であった所という。現在は市街地に没しているが空堀が残っている。