築城年代は定かではないが久寿年間(1154年〜1156年)に小山政光によって築かれたと云われる。 中久喜城は南北朝時代に小山義政が鎌倉公方足利氏満に反乱した際に登場する岩壺城に比定されている。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康の二男で秀吉の養子となっていた秀康が、結城晴朝の養子となり結城家の家督を継ぎ結城秀康となると、隠居した晴朝が隠居城としたのがこの中久喜城である。結城氏が越前へ転封となると晴朝も移り廃城となった。
城は西仁連川に江川が合流する地点の北にある丘陵に築かれている。辺り一面水田で僅か数メートルの微高地であるが、当時は沼地であったと考えられている。
本丸は南端にあって北側に水戸線の線路が東西に横切り城址を寸断している。本丸は畑となっているが、南側の水田との際に土塁と堀が残っている。
祇園城・鷲城とともに小山氏城跡として国指定史跡となっているのだが、入口を探そうと辺りをぐるぐる車で走ってもまったく案内がなく、西側の住宅地の端に駐車し農道を歩いて行った。しかし案内板もないし本丸に至っては畑である。北側は線路になっているので見なかったのだが、帰宅後色々調べてみると北側に石碑が建っているようである。