築城年代は定かではないが益子氏によって築かれたと云われる。 益子氏(ましこ)は「下野国誌」によれば「康平年間(1058年〜1065年)に紀正隆が益子那流山の山麓に益子城を築き、のち山上に住した」とある。つまり始め益子城を築き、その後に西明寺城を築いて住んだと解釈されているが定かではない。
益子氏は紀伊姓で、同じく宇都宮氏の家臣の清原姓芳賀氏とともに、紀清両党と呼ばれ鎌倉時代から南北朝時代にかけて宇都宮氏の重臣として活躍した。
天正17年(1589年)益子氏は笠間氏を攻めるなど主家宇都宮氏に叛いたとされ、宇都宮国綱は芳賀高定らと謀って益子氏を誅伐して所領は没収され、益子氏は滅亡したという。
西明寺城は益子町の南東にある標高301.8mの高館山山頂に築かれており、現在は森林公園として遊歩道などが整備されている。 西明寺城は南朝方の関東六城(常陸国関城・常陸国真壁城・常陸国大宝城・常陸国伊佐城・常陸国中郡城・下野国西明寺城)の一つに数えられる。
西明寺城は高館山山頂を中心として、北・南・西の三方に伸びる尾根に曲輪を設けており、南西側は西明寺のある辺りまで城郭遺構が残っている。山頂近くにある駐車場から登り始めると、主郭の南端から西へ伸びた尾根の曲輪を通って主郭に至る。主郭は山頂にあって南北に長く、南端に櫓台がある。北端からは北西方向に曲輪は伸び、この辺りも土塁が設けられている。北尾根は深く長い堀切で遮断されその先にも数段の曲輪が続き先端部は堀切になっている。西側に回り込んでいくとキャンプ場の施設があるが、この辺りも広い曲輪であったようだ。
益子町内から県道262号線で西明寺を目指してを進めば山頂付近の駐車場に達する。
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