築城年代は定かではないが山口氏によって築かれた。
牛久藩初代山口重政は星崎城主で織田信雄に仕えていたが、天正18年(1590年)に信雄が下野国烏山へ配流となると、天正19年(1591年)に徳川氏に仕えた。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦では徳川秀忠に従って上田城攻めなどに戦功を挙げ、五千石を加増されて一万石となり諸候に列して牛久藩となった。慶長16年(1611年)には更に五千石の加増をうけ一万五千石となったが、慶長18年(1613年)嫡子重信が大久保忠隣の養女(実石川康通の女)と無断で縁組みしたことを咎められ、改易となった。
改易となった重政は龍穏寺に蟄居となったが、元和元年(1615年)大坂の夏の陣には嫡男山口重信とともに井伊直孝に従って活躍、この戦いで重信は豊臣方の木村重成によって討たれた。
寛政5年(1628年)山口重政は罪を赦され、一万五千石で再び召し抱えられ牛久藩となった。寛永12年(1635年)重政の四男山口弘隆が家督を継ぐと弟重恒に五千石を分知し、以後一万石の大名として明治に至る。
牛久陣屋は牛久沼に面した台地の東端に築かれていた。小川芋銭記念館の北側一帯が陣屋跡で、河童の碑のある辺り一帯である。周囲は宅地や原野で遺構の状態は良くわからないが、部分的に土塁らしき土盛りがあり、空堀も残っているという。
河童の碑まで道標が付いていおり、駐車場も完備している。
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