築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)に別所氏の家臣保隅越中守の城館があった所と云われている。
元禄4年(1691年)赤穂城主浅野内匠頭の陣屋があり、吉田忠左衛門が加東郡奉行として在所した。浅野家断絶後は一時天領となった。
元禄16年(1703年)に旗本八木丹波守勘十郎の陣屋となり、八木但馬守太三郎、八木但馬守十三郎と三代続いて明治に至る。
穂積陣屋は現在は民家になっている。南に隣接する竹林も陣屋の敷地だというが、外から中を見ても荒廃した竹藪で何も見えない。
民家の門前は土塁らしき土盛りを確認することができる他、堀も残るという。了徳寺には移築された陣屋門が残り文化財に指定されている。
陣屋門(移築 長屋門)
中国自動車道の北側の側道沿いに西へ進んでいくと、自動車工場があり、その少し先に空き地がある。そこに見える竹藪と北側の民家のある所が陣屋跡。
最寄り駅(直線距離)